創業61年目にして、ジャニーズ事務所は崩壊の一途を辿(たど)っている。10月2日の会見で、ジャニーズ事務所は全タレントとエージェント契約に切り替える意向を発表。これまで所属タレントらは、ジャニー喜多川氏(享年87)や藤島ジュリー景子氏(57)、飯島三智氏(65)や滝沢秀明(41)など強力なプロデューサーらの派閥争いに揉(も)まれてきた。下の『SMAP』デビュー以降の事務所内勢力図とともに、各派閥の栄枯盛衰を振り返る。
「ジャニーさんは還暦を迎える’90年頃から後継者育成を考えており、その時期に、姪のジュリーさんがジャニーズ事務所に入社しました」(テレビ局関係者)
『KinKi Kids』や『タッキー&翼』などジャニー氏が気に入ったタレントは、デビュー後も彼が自らプロデュースを続けたという。’94年に『TOKIO』がデビューして以降、ジャニー氏がJr.を育成し、デビュー後、彼らのプロデュースはジュリー氏に引き継がれていった。滝沢とともに新事務所『TOBE』を支える元『V6』の三宅健(44)だけは、当時からジュリー氏ではなく海外でも有名なクリエイターとの人脈を持つ飯島氏に傾倒していたという。
「タレントのプロデュースはジャニーさんが、会社の経営は、彼の姉であり、ジュリーさんの母であるメリー喜多川氏(享年93)が行っていました。『SMAP』を超売れっ子にした飯島さんよりも、ジュリーさんを優遇したのは、メリーの意向です」(芸能事務所関係者A氏)
しかし、ある時、ジュリー氏とメリー氏の間に埋まらない溝(みぞ)ができたという。
「メリーさんがジュリーさんを精神的に追い詰めて、パニック障害にまで至らしめ、ジュリーさんが距離を置いていた旨が明らかになりましたが、それが’08年あたり。以降、デビューしたグループは、飯島氏に引き継がれました」(同前)
飯島氏が担当した’11年デビューの『Kis-My-Ft2』と『Sexy Zone』、’12年デビューの『A.B.C.-Z』、’14年デビューの『ジャニーズWEST』は、ジャニー氏の指示のもと、人気のないメンバーの衣装を簡素にするなどグループ内に格差を生むことで、強い執着心を持つファンを生んだ。また、この頃から、ジャニー氏とジュリー氏の間にも亀裂が生じる。ジャニー氏にプロデュースされていた『Hey! Say! JUMP』が、自らジュリー派に移籍したのだ。
「ジャニーさんはセンターの山田涼介(30)を気に入って、デビュー後もプロデュースしましたが、彼にしたら話が違う。デビューしたらメディア出演を重視するジュリーさんのもとでドラマやバラエティ番組に出演するはずだった。ジャニーさんは舞台を重視しており、その方針は変えなかった。
おまけにお気に入りの中山優馬(29)らとユニットを組ませたり、所属グループを大きく売り出す気配もない。そのため、’13年にジュリーさんに移籍を直談判したそうです」(劇場関係者)
’16年、定年退職が見えてきた飯島氏は『SMAP』を引き抜いての独立を試みるも、全員の引き抜きは叶わず退社。飯島派だったグループは、ジュリー氏のプロデュースを受けることとなる。
「国内需要に目を向けたジュリーさんのやり方に、海外志向のジャニーさんは不満を持っていたようです。彼の死後、後継者としてJr.育成の任を受けた滝沢も、反ジュリー派。同じく反ジュリー派の三宅が滝沢に続いて退所したのは当然でしょう。飯島さんの退社によって『Kis-My-Ft2』はジュリー派へ移籍後、仕事が激減。北山宏光(38)も反ジュリー派となった」(芸能事務所関係者B)
ジャニー氏の死後、社内の派閥はさらに混迷する。
「ジャニーさんが最後にデビューさせたのが『King&Prince』です。デビュー後に担当がジュリーさんになっても、平野紫耀(26)はジャニー派でした。その後、事務所がパニック障害で活動休止していた岩橋玄樹(26)を見限って退所させ、Jr.時代に岩橋とユニットを組んでいた岸優太(28)と神宮寺勇太(25)は反ジュリー派へ。メンバー内で仕事の志向が割れていきました」(同前)
’20年まで関西Jr.にはマネージャーがおらず、ジャニー氏が直接プロデュースを行っていた。ジャニー氏の死後、ジュリー派の『関ジャニ∞』の大倉忠義(38)と横山裕(42)はそれぞれ、関西Jr.の『なにわ男子』と『Aぇ!group』をプロデュース。滝沢のもとでデビューしつつも、Jr.時代に冷遇されたことで無所属を貫く『SixTONES』の京本大我(28)は、過去に『嵐』の松本潤(40)にプロデュースを懇願したという。次なる名プロデューサーを求めて、新たな派閥争いが始まろうとしている。
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