筑波大学附属高校(東京)でも陸上部へ。高校では走り高跳びや100mハードル(H)などもこなしていたが、一番可能性を感じていたのが走り幅跳びだった。3年生での関東大会で5m65をマークし、3位入賞。同校陸上部として1979(昭和54)年以来、36年ぶりともなるインターハイへの切符をつかんだ。
その後、内山は大半が医学部に進む東大理科三類に現役合格を果たすが、最初から東大を目指していたわけではない。部活に取り組んでいた時は試合で土曜日の授業に出られないこともしばしばあったため、塾にも通いながら遅れを取り戻していた。「高2まではあまり真面目じゃなかった」と言うが、文武両道はすでに、内山の中では当たり前の日常になっていたのだろう。
高3の夏に引退してからは勉強に本腰を据えた。センター試験を受けるまでは別の大学を第1志望にしていたが、思っていたよりもセンター試験の結果がよかったこともあり、後期に元々の志望校を受けることも視野に入れ、前期は東大理科三類に挑戦。見事現役合格を勝ち取った。その合格発表直後、塾で“陸上続行宣言”をしたのはインターハイでの悔しさがあったからだった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/248f17091ee9036e2d6afd1d4360c2ab24116323
その後、内山は大半が医学部に進む東大理科三類に現役合格を果たすが、最初から東大を目指していたわけではない。部活に取り組んでいた時は試合で土曜日の授業に出られないこともしばしばあったため、塾にも通いながら遅れを取り戻していた。「高2まではあまり真面目じゃなかった」と言うが、文武両道はすでに、内山の中では当たり前の日常になっていたのだろう。
高3の夏に引退してからは勉強に本腰を据えた。センター試験を受けるまでは別の大学を第1志望にしていたが、思っていたよりもセンター試験の結果がよかったこともあり、後期に元々の志望校を受けることも視野に入れ、前期は東大理科三類に挑戦。見事現役合格を勝ち取った。その合格発表直後、塾で“陸上続行宣言”をしたのはインターハイでの悔しさがあったからだった。
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